無題

相変わらずタイピングの反映が遅い。パソコンの画面に向かうのも大分気合がいる。気合がいるけれど、向かわねばならないと思って向かっている。

 

10月末を最後に、ブログの更新が途絶えていた。11月の記載が全くないのは、多分面倒になったからだと思う。11月は、平日安くなる映画を見に行ったり、買い物に行ったり、図書館に行ったり、散歩を意識した外出を交えながら割と文化的な生活をしていたのではないかと思う。つまり、割と元気だったということでもある。元気な時ほど日記なぞ書かなくなる。

 

12月は、割と忙しく過ごしていた。時々友達に会ったりもした。自分の心持ちを、「ああ、これは普通だな」と感じたりした。twitterで、世間で話題になっていることについてつぶやいたりもした。「つらい」だけのつぶやきはほぼゼロになった。だいぶ元気になってきていたのだと思う。それと同時に、先生と会っていて言われた「先のことへの不安」を解決しなければならないと強く思うようにもなっていたと思う。今思えば、強く、なのだが。当時は、強く、だとは思っていなかったところがポイントである。

 

12月半ば、彼氏が住む関西へ久しぶりに行った。普通、彼氏の顔でも見たら元気になるのではと思うところだが、休職してからずっと関西に行くことはできなかった。やりとりが思うようにいかない彼氏と会う気にならない部分もあったけど、何より例えば2泊分の荷物をつめることも、東京駅まで行くことも、新幹線に乗って遠くへ行くことも、億劫でしょうがなくて無理だった。考えるだけで眩暈がしそうだったので、とても無理だった。だけど、段々元気になった私は関西へ行こうかと考えるようになった。予定を立て、新幹線を予約し、荷物をつめることができるようになった。そして関西へ向かった。その時私は、今思うと、それまでの彼氏のふるまいに対して怒っていた。彼氏が先のことへ向き合ってくれないと感じ、とても怒っていた。別れたほうがすっきりするんじゃないかと本気で思っていた。回復したエネルギーは、怒りという嫌な予感しかしないものへ向かっていた。それに気づいていなかった。

 

彼氏と会って話したら、全然思い通りにいかなくて、私の気持ちの振れ幅が限界値をこえた。そして、衝動的に別れたいと言ってしまい、あっさり了承された。なんてひどいんだと思った。その後も変人彼氏の理解不能な行動はいくつもあったけれど、3日目の朝まで一緒に過ごした。早朝、私は段ボールに荷物をつめてコンビニで自分あての宅配便を依頼した。3日目、入れていた予定を遂行すべく研修に向かった。より寒い北の地で、灰色の空の下でお昼をたべた時は、本当に気持ちが弱っていてもう生きていけないのではと思った。帰りの新幹線で本を読んだら、はたと冷静になり、うつ病のあいだは重大な決断をしてはならないという原則をすっかり忘れていたことに気づいた。そして自分が冷静さを欠き視野狭窄していたこと、自分の主張ばかりになっていたことを振り返った。反省したが、遅かった。涙がでた。普通に歩いてても涙がでた。

 

結局彼氏とは別れることを保留にした。今本当に、あの時は強く解決せねばと思い込んでいたし、怒っていたことを冷静に振り返っている。やっぱり不安定だったんだなと思う。ブログに何度か書いていたように、焦っていたのかもしれない。その後、連日泣いて、結局すとんと気持ちが落ち込んだ。胸のあたりにもやもやしたものが常駐し、だるくなった。気力がなくなった。薄っすらとまた死にたいと思うようになった。調子が悪くなると死にたいと考えるのは、生存本能なのだろうと思う。

 

このエネルギーの振れ幅の大きさこそ、調子の不安定さであり、まだ回復途中であることを示しているのだと今は思う。さて、どうしようか。